おはようございます。

うっかり忘れるところでした。

  <目次>

・『騎士団長殺し』から5年

村上春樹氏がノーベル文学賞を受賞できない理由(私見)

次回作への期待と

 

『騎士団長殺し』から5年

忘れそうになった理由は、本年のノーベル文学賞での話題が盛り上がらなったことによります。
最近の氏の動向は、もっぱら「村上RADIO」の話題ばかりで、肝心の文学に関する話題に乏しいと言えます。
作品同様、自らの趣味炸裂の同放送が、思いのほか好評とのことで、本人も気をよくして注力しているようです。
それとも、文学賞受賞のプレッシャーから解放されたいのでしょうか。
ファンにとっては、ベールに包まれた氏の私生活の一端に触れることができて大歓迎なのでしょうが、作品にこそ興味がある嵐にとっては味気ない1年となりました。

氏の本格的な長編小説は7年周期という説もあります。
とすると、後2年、次回作はおあずけということになります。
毎日、原稿用紙10枚を書くことをルーチンとしている氏です。
7年という周期はいかにも長いと感じてしまいます。

 

村上春樹氏がノーベル文学賞を受賞できない理由(私見)

ところで、本節のタイトルに関することを考えてみました(あるいは、嵐が氏の作品に感動しない理由と言っても良いかも知れません)。
極めて個人的な意見ですが、歴代のノーベル文学賞受賞作家を振り返ってみると、次のような印象を持ちます。

国家(あるいは、民族)の歴史と、登場人物の葛藤が表現されていること

現代社会の枠組みの外枠は国民国家です。
その国民国家の区分けは、民族の分布に準じて線引きされています。
そうした構図にあって、世界を代表する作品をものする作家は、何らかの形でこのテーマと格闘しなければなりません。

試みに、本邦の受賞者 大江健三郎氏は言うまでもなく左派・リベラル派に属する作家でした。
あるいは、候補者であった三島由紀夫氏は、自衛隊市ヶ谷駐屯地での自決事件という鮮烈な幕切れを果たした保守派でした。
川端康成氏は、一見、政治やイデオロギーとは無縁のようですが、美濃部都政に反対し、自民党の対立候補の応援をするという保守派の一面を持っていました。

しかるに我が村上春樹氏は・・・。
香港の民主派運動に連帯を示すという行動をしたことがありましたが、それは口先だけで、具体的な活動にはつながりませんでした。

パレスチナ問題を抱えるイスラエルの文学賞を、躊躇することなく拝受するという奇怪な行動もありました。
今、ウクライナ情勢、東アジアの緊張という切迫した事態を前にして、氏は何ら積極的にも、消極的にも発言していません。
一時、氏の評価にあった国籍の無い作品のとおり、そこには国家も民族も登場しないのです。
氏は、この評価を大変気にして、『ねじまき鳥クロニクル』や『騎士団長殺し』で、先の大戦に於ける帝国軍の残虐行為の章、描写を加えましたが、どこか取って付けたような、板に付いていない浮いた仕上がりになっています(前者は未読)。
事実、前者の章、描写はどのような意図で書かれたのかという評価、議論もあったようです。
氏が世界中にファンを持つ理由には、このような国家や民族というドロドロしたテーマをあつかっていないことに由来するのではないか。

氏は、良く言ってコスモポリタン、悪く言えばノンポリではないか。
この点が、ノーベル文学賞の選考委員の心を打たないが故に、受賞を逃していると嵐は観ます。

 

次回作への期待と

ノーベル文学賞受賞が作家としての成功ではありません。
従って、拘る必要性はさらさら無い訳ですが、ハルキストを中心にシンパや日本人として、文学賞に一番近いと噂される氏の受賞は、様々な意味で期待せざるを得ません。
前節の嵐の見立てが正鵠を射ているならば、次回作では国家、民族(の歴史)と登場人物の葛藤、相克を描いた作品を書いてほしいと思います。
そこで、かねて望んでいるのは、氏の翻訳になるヘミングウェイの作品群です。
氏が私淑するL・チャンドラーはハードボイルド小説の大家です。
ハードボイルド小説の真価は、余計な(内面)描写をしない非情な文体にあります。
ヘミングウェイは、そのような文体で作品を書き、ノーベル文学賞を受賞しました。
先人に学ぶことは、何歳になろうと遅くありません。
氏が、この翻訳業をする過程で得るものは多大ではないでしょうか(また、読んでもみたいのです)。

年も押し詰まっての嵐の願いです。

 

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